34歳、遅咲きのブレイク。その後、テレビの露出が減って……
――役者を目指しながらもなかなか芽が出ず、お子さんの誕生をきかっけに夢をあきらめたところまでうかがいました。そんな人生を変えた出来事とは?
34歳のとき、20代のころから知っていた、ある人物から「ラジオに出ないか」と誘いがくるんですね――関根勤なんだけれど。関根勤とは、もともと小堺(一機)君を通して知り合ったんだ。小堺君とは演劇学校がいっしょでね、ライブなんかもいっしょにやっていたんです。
あるとき、関根君が、僕との共通の友だちに「最近、ルー見ないけれど、どうしてるの?」なんていって、そこで出てきたのが、僕がやっていたモデルのパンフレットの写真。僕がポーズをとっている姿が気持ち悪かったらしくて(笑)。それで、コサキンっていう、関根君と小堺君がやっているラジオ番組で、なんの予告もなしに、その写真を関根君が小堺君に見せたんだって。そしたら、あの小堺君が、笑い転げてしゃべれなくなったそうでね。
それで、「その写真の人ってだれなんですか?」というようなハガキが、番組に殺到したんだよね。関根君から「ルー、お前のことで盛り上がってるから、1回でいいから、ラジオに出てくれないか」って。「いや、俺は辞めた人間だから」って何度も断ったんだけれど、しつこく頼まれて、それじゃあ1回だけ……って。そしたら、それを機に、テレビやラジオの仕事が増えてきたんだよね。でも、当初は生活のためにティッシュ配りもしながらだったけどね。
――ルー大柴としての1回目のブレイクですね?
仕事に関しては、いつもがけっぷちだったというか、いつも最後のチャンスだと思って取り組んでいました。でも、ぜんぜん違う角度から仕事がもらえたりしたんですね。当時は、自分でも演出して、濃いルー大柴像を作っていました。1回見たら忘れられないようにしたい、名前を売りたいという一心で、海パン一丁になっていたときもありましたね。
でも、やりすぎた。キャラが強すぎたんですよね。本当は違う側面もあるのに、テレビ局からは、やはりルー大柴の「テンション」を求められる。それで、40を過ぎて、仕事がひとつ減り、ふたつ減り……自分でもキャラに飽きてきて、テレビには出なくなってきましたね。以来、40代は、テレビにはほとんど出ず、舞台で役者の仕事をしていましたね。
――テレビへの露出が減っていったご心境は?

うん、しょうがないっていう気持ちもあるし、芝居でなんとか食えればいいかなって思っていましたね。でも、現実問題、収入はピーク時の10分の1。また家にいることも増えたので、子どもに「またいるの?」っていわれたり。ワイフにも、洋服なんか買ってくると、「むかしとは違うんだから控えて」っていわれたしね。
次男が小学校高学年だったから、めだか採りに行こうか、どじょう採りに行こうか、なんて誘うと「親父みたいにひまじゃないんだよ」って一言を突き返されもしたし。とにかく、僕の40代は、次になにをやるべきかが全然見えていなかった。過去の栄光が邪魔をして、わからなくなってしまっていたんだよね。(次ページへ続く)


