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 スポーツの世界で輝きを放ったアスリートたちのなかにも、引退後はその世界から離れて〝第2の人生〟を選択する者は少なくない。彼らはいかにして己の次なる人生を決断し、歩んでいるのか。第3回はサッカーの遠藤彰弘。

 南アフリカワールドカップで日本代表をベスト16に導いた岡田武史監督が横浜F・マリノスの指揮官だった時代、遠藤は不動のボランチとして2003、2004年のリーグ2連覇に大きく貢献した。その後足のケガによって32歳で現役を引退し、実業家の道へ。今年3月、オーナーとして横浜市中区に日本料理店の「遠藤」をオープンさせ、早くも反響を呼んでいる。



「マイアミの奇跡」を起こしたプロサッカー選手が日本料理店経営者に――遠藤彰弘登場

 2010年、日本の夏は熱かった。

 南アフリカで行なわれたサッカーのワールドカップ。日本代表は2勝1敗の勝ち点6でグループリーグを勝ち抜く快進撃を見せ、ベスト16まで進んだのだった。

 遠藤は岡田ジャパンの中心選手として活躍する弟・保仁のプレーを日本から見守っていた。弟はデンマーク戦で直接フリーキックでゴールを決めるなど、4試合すべてに先発出場を果たした。だが遠藤は弟の個人的な活躍よりも、チームとしての躍進を喜んでいた。

「ヤット(保仁の愛称)が点を獲ったときはすごく興奮しましたよ。でも、日本サッカーの今後を考えるならば、日本代表がグループリーグを突破してくれることをまず願っていましたから」

 サッカーファンならおそらく誰でも鹿児島の「遠藤3兄弟」を知っている。末弟の保仁がプレイヤーとして憧れたのは2人の兄であり、二男・彰弘の影響も十分に受けた話もよく知られている。

 遠藤彰弘は強豪の鹿児島実を卒業し、1994年に横浜マリノスに入団。2年目から頭角を現すようになるが、遠藤の名前を一躍有名にしたのが96年のアトランタ五輪だった。ビッグネームが揃った優勝候補のブラジルを撃破した「マイアミの奇跡」を起こしたメンバーの一員である。左アキレス腱痛を抱えながらもブラジル戦に先発したのだった。

 遠藤は99年以降、完全にレギュラーに定着し、サイドハーフよりもボランチのポジションで持ち味を発揮するようになる。視野の広さを活かしてチームのバランスを取りつつ、ドリブルを武器とした攻撃力でマリノスの2度の年間王者に貢献するのだ。当時指揮した岡田監督から全幅の信頼を寄せられていた。

 だが、遠藤には絶えずケガがつきまとった。01年には初めてA代表候補として合宿に参加するものの、右太もも肉離れで離脱して千載一隅のチャンスをつかめなかった。05年に移籍したヴィッセル神戸では06年に左足かかとを手術して長期離脱に追い込まれ、次に右足にも痛みが出るようになったことで引退を決断することになるのだ。

 引退後はサッカー教室のコーチなど後進の指導に力を注ぐ一方で横浜市内にある、豚しゃぶ料理店「吉田」のマネジャーを務めて事業家としての第一歩を踏み出した。

 そして今年3月19日、構想から約1年間を経て自らがオーナーを務める「遠藤」を横浜にオープンさせた。(次ページへ続く)





著者プロフィール
二宮 寿朗(ニノミヤ トシオ)

1972年、愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。ボクシング、格闘技、ラグビー、サッカーなどを担当。06年に退社し、文藝春秋「Number」編集部を経て独立。

著書に「闘争人~松田直樹物語」(三栄書房)がある。

現在、「Number WEB」にて「日本代表 2010年への旅」を連載中。






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