有吉弘行、破門から始まった芸人生活

有吉弘行が再ブレイクの兆しを見せている。元「猿岩石」――90年代半ば、日本テレビ系列「進め!電波少年」で企画された、ユーラシア大陸を横断したヒッチハイクの旅で世間の話題をさらい、歌手デビューまで果たすなど、大ブレイクした人気お笑いコンビ。著書「猿岩石日記」はシリーズ250万部を突破したり、藤井フミヤ・藤井尚之作曲の「白い雲のように」はミリオンセラーとなったりと、その活躍は華々しかった。
ところが、一転、ブームは去り、冬の時代をすごす。2004年にコンビは解散し、相方は芸能生活に見切りをつけて、芸人を辞めた。
しかし、有吉は芸人であり続けた。そして、約10年の時を経て、再び脚光を浴びはじめる。有吉が長い冬の時代を耐えてこられたのはなぜなのか。そして、再起を果たしたいま、CAREERzine読者に伝えたいこととは?
――芸人になったきっかけは?
目指していたのは小学生のころからですね。広島の田舎だったんですけど、おもしろいヤツが一番モテるっていう単純な理由から憧れて。
で、高校卒業後、大阪のオール巨人師匠のもとに弟子入りしたんです。ところが、ミスは多いわ言葉遣いは知らないわ。服をたたんだりできないし、方向音痴で道の説明もできない、とにかく弟子として気が利かない……それで「弟子に向いていない」ということで、わずか半年でクビになったんです。
――そのときの心境はどうでしたか?
絶望ですよね。吉本興業の大看板の師匠ですし、広島出身の僕には大阪が東京みたいな意識がある。クビになって広島に帰るときには都落ちみたいな心境で。子どものころから目指してきたお笑い芸人への道が、半年くらいでこんなにもあっさりと終わってしまうなんて……。
――そのあとは?
広島でバイトをしながら元相方を誘って、大阪へは行けないので、通り越して東京へ行くことにしました。それが20歳のときです。
それから太田プロダクションのオーディションやライブに出始めて。正式所属から2ヵ月後の21歳のときですね、「進め!電波少年」の企画でヒッチハイクの旅に行くことになったのは。まずいきなり香港に連れて行かれて、そこからイギリスまでヒッチハイクで行け、というものでした。予防接種1本打っていない状態でインドなんかにも行くことになって、今考えると恐ろしいことですよね。
約半年の旅でしたが、最中は、毎日「帰りたい」。どんな感動的な場面でも続けようという闘志はありませんでした。



