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 アスリートのなかでも長く第一線で活躍できる者はそう多くない。心身を磨き上げ、セルフプロデュースに優れたアスリートのみが辿り着ける領域なのかもしれない。彼らはいかに思考し、いかに行動に移しているのか。息の長いトップアスリートたちのそれぞれの「哲学」とは――。第1回はボート競技の武田大作(ダイキ所属)が登場。38歳の現在も、第一人者として日本のボート競技を牽引する、”鉄人”にインタビューした。



ボート界の鉄人・武田大作登場 長年結果を出し続ける秘訣とは

 水面に一筋の線を引くように自らの力で艇を進ませ、スピードを競う――。

 ボート競技の歴史は紀元前にさかのぼるとされ、近代においても、オリンピックが初めて開催された第一回アテネ大会(1896年)から正式種目に採用されている。

 パワー、スタミナ、バランス、瞬発力……。2000m先のゴールに向かって、あらゆる運動能力が求められるこの過酷な競技は、体格差で勝る欧米の選手たちが常にトップを支配してきた歴史がある。

 武田は、23歳のときに出場したアトランタオリンピックのシングルスカルで、21人中20位という散々な成績に終わった。しかし、それは反骨のストーリーの始まりでもあった。

 2000年には世界選手権軽量級クォドリプル(4人乗り)で優勝を果たし、シドニーオリンピックのダブルスカルで6位入賞。そして、軽量級シングルスカルでは、2005年7月のワールドカップ最終戦、スイス・ルツェルン大会で日本人初の金メダルを獲得したのである。それは、世界のトップに仲間入りを果たした歴史的な瞬間だった。

 欧米の高い壁を打ち破るべく、武田は世界のトップ選手からノウハウを学び、技術革新を図ってきた。フィジカル、メンタルを含めてすべての面で、日々“ボート道”を追求した結果、いつしか「日本の武田」は「世界のTAKEDA」となっていったのだ。

 国内では、全日本選手権で12度の優勝を誇る。これは言うまでもなく最多優勝記録だ。3連覇と記録更新を狙った今年9月の大会では、決勝前に腰を痛めるアクシデントに見舞われながら、それでも2位にこぎつけている。過酷な競技のなかで、長年にわたって常に結果を出してきた武田。その秘訣について迫った。

初オリンピックで予選落ち そこから始まった反骨ストーリー

――武田さんは23歳のときに初めてオリンピックに出場されました。種目はシングルスカル。その後の競技生活を左右するターニングポイントになったようですね。

 「僕は予選で21人20位に終わって、レベルの差というものを痛感させられました。スピードそのものばかりでなく、試合に向けた準備ひとつとっても、意識が世界のトップレベルとまったく違っていた。あのときの僕は、オリンピックに出られたことで既に満足していたように思う。予選の次の日から、『もう次に向けてスタートしよう』と頭を切り替えたんです」

――と言いますと?

 「アトランタでは、他のチームの練習や試合に積極的に足を運んで見ることで、目線を変えようと思いました。日本のトップに尺度を合わせるのではなく、世界のトップに合わせよう、と。アトランタの前まで2大会で金メダルを獲得していたドイツ人選手が僕の隣にいつも艇を置いていたこともあって、彼をいつも観察することにしました。どうやって漕いでいるか、どうやって試合前、準備をしているか、とか。レースになると舟がとにかく静かなんです。僕のほうはガタガタとうるさいのに(笑)。このとき、『ボートを漕ぐというよりも押すニュアンスなんだ』とハッと気づかされました」(次ページへ続く)






著者プロフィール
二宮 寿朗(ニノミヤ トシオ)

1972年、愛媛県生まれ。日本大学法学部卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。ボクシング、格闘技、ラグビー、サッカーなどを担当。06年に退社し、文藝春秋「Number」編集部を経て独立。

著書に「闘争人~松田直樹物語」(三栄書房)がある。

現在、「Number WEB」にて「日本代表 2010年への旅」を連載中。






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