前回の続きです。イギリス・官費留学のための義務労働期間は4年間。その間に処女作『吾輩は猫である』が大ヒット。兼業の作家となるも、義務期間が終わる1907年以降も教員を続け兼業作家で行くのか、専業作家になるか悩む漱石先生。
義務期間があける1907年の前年、1906年に京都帝大と読売新聞から、それぞれ転職が打診されます。しかし、その両方を断わった、というあたりが前回のお話でした。
朝日新聞、教え子を使って漱石に入社を打診

1907年2月、朝日新聞が入社を打診します。なお、大阪で創刊された朝日新聞は当時、東京にも進出。大阪朝日新聞、東京朝日新聞と別の題字で印刷され、会社組織としても別会社でした(ここが後々重要になってきます)。
まず、大阪朝日新聞の主筆・鳥居素川が『草枕』を読んで感動、1907年の新年用エッセイを漱石に依頼します。しかし、これは多忙を理由に断わられてしまいました。
これで諦めない鳥居は、今度は東京朝日新聞の主筆・池辺三山に入社交渉を依頼します。偶然にもこの時期、東京朝日新聞には熊本時代の漱石の教え子である白仁三郎が随筆寄稿者として、同じく熊本時代に俳句を通じて交流のあった渋川玄耳が内定者(1907年3月に社会部長として入社)として、身を寄せていました。なお、白仁も1907年7月に入社します。
白仁は2月に池辺に小説家志向が強いことを伝える一方、漱石にも会いました。この時点では、読売新聞が入社を打診していた、と思われていた時期です。前回も書きましたが、1906年11月と12月には特別寄書家となる旨の社告まで出しています。結果的にはフライングとなりましたが、そのことを白仁や朝日関係者は知りません。
白仁は読売新聞との関係や教員の辞職が可能かどうかを質問しました。漱石も教え子であり知己でもある白仁に心を許したのか、小説家として食べていくことに前向きな姿勢を話します。
東京帝大から教授職の誘い 専業小説家への道が捨てがたく悩む
ここで話が一気に進むかと思いきや、朝日新聞にとって強力なライバルが、漱石獲得競争に手を挙げます。そのライバルとは東京帝国大。しかも、提示したポストは当時の漱石の講師職から一気に格上となる教授職でした。さらに、初代英文学担当というオマケ付き。
当時、東京帝大は高等教育研究機関として頂点にありました。そこの教授ですから、文句の付けようがありません。英文学担当ということは学界では英文学の第一人者として認められたことになります。
1906年に京都帝大の教授職を提示されたときは「現住所の千駄木は嫌いだが、そこを離れるとますます邪悪になる」という趣旨の理由で断わりました。駄々っ子のような理由だったことは前回述べましたが、東京帝大なら千駄木から通えます。
自宅からも通え、ポストとしては最高。普通なら、これで勝負あったところですが、漱石は専業小説家への道が捨てがたく相当悩みます。
そこで、漱石先生はビジネス交渉に打って出ます。白仁に対して3月4日に手紙を出し、その中で細かい条件についての質問を列記しました。(次ページへ続く)



