偉人に学ぶ処世術シリーズ、第3回は赤穂浪士です。
赤穂浪士が吉良上野介に討ち入りをした忠臣蔵は有名です。その陰には討ち入りに参加しなかった赤穂浪士が多数いました。討ち入り成功後、不参加組は世間から卑怯者・臆病者(脱盟者)と批判されることになります。
彼らは本当に卑怯者・臆病者だったのでしょうか。ここでよく言われるのが、理想か現実かということです。私は、二項対立ではなく、2つの現実がありどちらを優先すべきか。その判断の違いだったと考えます。
そこで、今回は本連載の大テーマである「転職」「職業」という視点に加えて、重要場面においては、対立した2つの現実が何だったかについても見ていきたいと思います。
3分で振り返る 赤穂浪士討ち入りの背景
事の起こりは赤穂藩主・浅野内匠頭長距が1701年3月14日に吉良上野介義央を斬りつけたことです。このとき浅野は京都の朝廷から来た勅使の接待役、そして吉良は接待役である浅野を指南する立場にありました。
領地は浅野が5万3,000石、吉良は4,200石と浅野の方が広く領有していました。ただ、朝廷からの官位は浅野が従五位下、吉良は従四位上で吉良の方が格上です。
浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と言いながら斬りつけました。しかし、致命傷とならず吉良は助かり、浅野も取り押さえられました。
実は「この間の遺恨」が果たして何かはいまだに不明です。幕府の取調べでもその内容が吟味されることはありませんでした。塩田技術説(吉良が塩田技術を教えるよう浅野に依頼、それを断わったので吉良が恨んでつらく当った)、乱心説、吉良のイジメ説など諸説あります。
浅野は取り調べに対し「幕府に対する恨みはない。吉良には私的な遺恨があり討ち果たそうとした」と答えます。一方の吉良は「恨まれる覚えはなく、浅野殿の乱心である」と主張します。
当時の法律、武家諸法度ではもし喧嘩なら両成敗で双方が処罰されます。乱心ということなら吉良は処罰されません。
事件を知った将軍・徳川綱吉は激怒、浅野の切腹と赤穂藩の取り潰しを命じます。事件即日で切腹・取り潰しは異例のことであり、家臣から「もう少し詮議をした方が」との声も上がりますが、綱吉は重ねて命じます。その日のうちに浅野は預けられた陸奥一関藩の庭先で切腹し果てました。一方の吉良は無罪。何の処罰も下されていません。 繰り返しますが、喧嘩両成敗は当時の法律にあり、かつ常識でした。それが無視されたことが赤穂浪士の討ち入りにつながります。
事件は赤穂藩にも届き大騒ぎになりました。藩士を集めての大評定では、城を明け渡す恭順派と徹底抗戦派に分かれ紛糾します。
筆頭家老だった大石内蔵助が「開城し、その上で長距様の弟、大学様を立てて御家再興を目指す」と提案し家中をまとめようとしますが、恭順派の次席家老・大野九郎兵衛は反対、大石の藩資産処分案にも反対します。大石は家臣全員に平等に分けようとしました。これに対して大野は家族・使用人の数に応じた処分案を主張します。(次ページへ続く)



