慣れない仕事がうまくいかず…リストラ侍のその後を追う
歴史・偉人に学ぶ処世術シリーズ、第5回は明治維新期の旧幕臣の続きです。前回はこの「士族の商法」に陥った、すなわち失敗例について見てきました。今回は、維新の嵐にもめげず、失敗しなかった、成功例を見ていきたいと思います。
実は、士族の商法で失敗した者もいたとはいえ、旧幕臣は戊辰戦争以降、大規模な反乱を起こしていません。明治維新の勝ち組、薩摩・長州・肥前などは佐賀の乱(1874年)、神風連の乱(1876年、熊本)、萩の乱(1876年)、西南戦争(1877年、薩摩)など不平士族の反乱が起きています。この違いは一体どこから来ているのでしょうか。
まず、江戸城開城の時点で、徹底抗戦派は上野寛永寺に立て篭もるか、東北・北海道に逃げて転戦しました。残った恭順派にしてみれば、旧幕府が消滅した以上は反乱を起こしても日本のためにならない、という思いがあったのではないでしょうか。
徳川宗家が静岡藩主に封じられ、旧幕臣は
- 新政府に出仕
- 暇願いを出して商業・農業に転身
- 無給覚悟で静岡藩士になる
という3つの選択肢を提示されました。
3.3万人いた旧幕臣のうち、「無給でもいいから静岡藩士に」と考えたのは約1万人いたことは前回ご説明しました。彼らはその後どうなったのでしょうか。
静岡に移ったリストラ侍 まずは住居がボロ家に
まず、住居は江戸在住時代には幕府の家臣ということもあり、広い家を持っていました。それが静岡藩に移る、ということで手放さなくてはなりません。新政府に接収されるくらいなら、と旧幕臣は売りだしますが、同じことを考えた旧幕臣が多すぎ、相場は暴落。捨て値でしか売れません。
前回もご紹介した塚原渋柿園は明治時代の歴史小説家です。彼の父親も旧幕臣であり、静岡藩士への道を選びました。当時、青年だった彼はそのあたりを記録に残しています。
私の江戸の市ヶ谷の住居も、決して美麗の、立派のというわけではないが、とにかく四百坪ほどの地面があって、座敷から隠居所までの大小の間数が十一間…(後略)(塚原渋柿園『幕末の武家』)
それが静岡に移住するとどうなったか。
その家といったら六畳に二畳、三尺の台所に一つ籠(中略)、その板葺の屋根も半分は腐っている。(同上)
十一間もあった家がわずかに二間、それもボロ家ですから塚原は思わず率直な感想を母親に言います。
「お母さん、実にひどい家ですなあ!」と私が言うと「いえお前、そんなこと言っておくれでないよ。これでもお前御泊さん(移住者の異名)にしちゃいい分なのだよ」
中には農家の、それも馬屋を改造した家もあったそうです。そして給与も元々、無給覚悟ということでしたからほぼゼロです。
給料を支給されたのはごく少数。他は扶持米は支給されたものの、それを売り払うと生活できず、休日には食べ物探しをしたり、庭に畑を作って自給自足の生活を送るなどしたようです。(次ページへ続く)



