関ヶ原の戦いに学ぶ 派閥争いに悩んだときの決断方法
歴史・偉人に学ぶ処世術シリーズ、第6回は関ヶ原の戦いです。1600年9月15日、東軍率いる徳川家康と西軍率いる石田三成、両軍あわせて約16万人が激突します。それより前、諸大名は東軍につくか、西軍につくかで悩みます。
この悩みは今の社会人でも同様ではないでしょうか。今の会社に残るか、それとも転職するか? あるいは、会社に派閥があるならどっちにつくか? 今回は大大名の動向を中心に論じていきます。
5分でわかる! 関ヶ原の戦いはなぜあんなにややこしかったのか
その前に関ヶ原の戦いとその前の動向を簡単にご説明します。
1598年、豊臣秀吉が死去。天下の行方は混沌とします。秀吉は子の秀頼を後継にしますが、このときまだ6歳。政治は秀吉が定めた五大老と五奉行が担います。
五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、いずれも大大名です。実際には、秀吉の死後は、家康が政治の中心となりました。官位は家康が正二位、他の4人は従三位で三段階も下だったからです。領土の広さも家康は250万石。毛利が121万石(支藩を入れれば200万石)、上杉が120万石、前田83万石、宇喜多57万石。家康の方がはるかに上です。
唯一、前田利家は家康よりも5歳年長、そのため家康のストッパー役になると期待されていました。実際に、勝手に他大名と婚姻することで結びつきを強化しようとした家康を、前田や五奉行の石田らが詰問することもありました。しかし、その前田利家は1599年3月に死去。こうなると、家康を止める者はおりません。
前田利家の亡き後、家康の勢力拡大に待ったをかけたのが石田三成です。三成は、秀吉の小姓から才覚によって出世していった経済官僚です。秀吉もその才能を評価し、近江佐和山18万石を有する大名にまで出世しました。しかし、それでも五奉行止まりであり、五大老に比べればまだ小勢力です。
それに、いかんせん性格が災いしてか、三成は人望がありませんでした。秀吉が病に倒れた後、冬の季節に毛利家が病気見舞いに桃を贈りました。それを三成は「季節はずれの食べ物で体を壊す」とつき返したくらいですから。(次ページへ続く)



