歴史・偉人に学ぶ処世術シリーズ、第7回は関ヶ原の戦い・後編です。1600年に起きた関ヶ原の戦いは、まさに日本を二分するものであり、参加した戦国武将の命運も大きく分かれました。前編では、負けるとわかっていてあえて西軍についた大谷吉継と、負け組ながら復活した毛利輝元、島津義弘の3人を紹介しました。今回はその続きです。
佐竹義宣の場合:どっちつかずの態度で負けを最小限に抑える
佐竹氏は源氏の血を引く名門であり、関ヶ原の戦い以前は常陸(水戸)に54万石を領有していた大大名です。佐竹氏は南(江戸など)の徳川家、北(陸前など)の伊達家とは、対立ないしは微妙な関係でした。先代の佐竹義重のときには伊達政宗と三度争っているほどです。
一方、同じ北でも、会津の上杉景勝とは仲が悪くありません。これは先代の上杉謙信が関東の覇者だった北条氏康と争ったときから、親・上杉の姿勢を示していたためです。また、義重の跡を継いだ佐竹義宣は、石田三成と親しい仲にありました。七将による三成襲撃事件のときには三成救出に一役買っています。
上杉家との仲もあり、義宣は西軍寄りの姿勢を示しますが、隠居していた先代の義重や家臣は反対。そこで、徳川秀忠に小規模な部隊を送る一方、家康をけん制する動きも見せ、どっちつかずの対応を示します。
結果として家康の不信を招き、1602年に出羽国(秋田)に転封されます。石高は当初示されず、後に20万石と半減以下であることが判明する異例の処置でした。
これだけ見ると単なる負け組ですが、もし東軍についていたらどうなったか。漫画『雪の峠・剣の舞』(岩明均)では「九州か東北で100万石の加増となる。しかし、大きくなりすぎて警戒され取り潰しの憂き目にあったはず」との仮説を出しています。
確かに先代の佐竹義重は勇名高く、家康は相当に警戒していました。実際に加増となった闘将の福島正則は後に改易されています。
佐竹藩は検地などで出羽国を整備、特に現在の秋田市の基盤を作ります。さらには鉱山開発にも力を注ぎ、幕末では周囲が親・幕府の奥羽越列藩同盟で固まる中、新政府側に参戦、猛攻に耐えて勝ち組と転じます。(次ページへ続く)



